HUNDERTWASSER/BIOGRAPH
12月5日オーストリアウィーンに生まれる。本名フリートリッヒ・シュトヴァッサー | ||
1929 | 父を亡くす | |
1934 | 初めてのデッサンを描く | |
1936 | ウィーンのモンテソーリィ小学校入学。色彩と造形に対する並外れたセンスが認められる | |
1938 | オーストリアがドイツに併合された後、ウィーン第2地区、上ドナウ川通りのおばと祖母のもとへ強制的に転居 | |
1943 | 本格的に人体デッサンを始める。ユダヤ系である母方の親戚69人が東欧に強制送還され、全員殺される | |
1948 | 高校卒業。ウィーン美術アカデミーにて3ヶ月過ごし、エゴン・シーレの影響を受ける。ワルター・カンプマンの展覧会から決定的な影響を受ける。彼独自の様式を展開し始める | |
1949 | 「フンデルトヴァッサー」と名のるようになる。広域の旅行開始 | |
1950 | パリに滞在。エコール・デ・ボザールに1日だけ在学し、翌日退学 | |
1951 | モロッコ・チュニジアに滞在。アラブ音楽のよさを知る。9月よりウィーン・アート・クラブのメンバーとなる | |
1952 | 装飾的かつ抽象的な傾向の時期。ウィーンのアート・クラブで最初の展覧会 | |
1953 | 映画「狂気のイメージ」に強い印象を受け、最初の渦巻を描く。2度目のパリ滞在。サン・マンデのブローのアトリエで活動する | |
1954 | パリのポール・ファケッティ画廊で最初の展覧会。9月から10月、黄疸になり入院。数多くの水彩画を描く。超オートマティスム理論を著す | |
1955 | ミラノのナビリオ画廊で展覧会 | |
1956 | 船員として『聖バウタ号』に乗る。『ファーズ誌』及び『シメーズ誌』に「超オートマティスムによる創造の可視性」についての文章を発表 | |
1957 | ノルマンディー地方にラ・ピコディエールという家を購入。『視覚の文法』発表 | |
1958 | ジブラルタルで結婚(1960年に離婚)7月、「建築における合理主義に対する腐植土宣言」の講演 | |
1959 | 第5回サンパウロ・ビエンナーレにおいてサンブラ賞を得る。秋、ハンブルクの美術大学の客員講師として招かれるが、「無限の線」を引くプロジェクトが騒動となり中止。その後講師の職を辞す | |
1960 | 「いかに自立して生きられるか」を示すためイラクサを食べる実演 | |
1961 | 日本に滞在。第6回毎日国際美術展覧会で毎日賞を受賞。 | |
1962 | 池和田侑子と結婚(1966年離婚)ベニス・ビエンナーレでの出品で大きな反響を呼ぶ | |
1963 | ジークフリード・アドラーが世話人となる | |
1964 | アルプス山脈のチロル地方を巡る。ケストナー協会の展覧会の準備。最初のカタログを出版 | |
1965 | エッセイ『スウェーデンの35日』出版。ストックホルムにおける巡回展で大成功をおさめる | |
1966 | 愛の破局。最初のドキュメンタリー映画撮影 | |
1967 | ウィーン、ミュンヘンにおいて「3番目の皮膚の権利の為の裸の演説」を行う | |
1968 | ウィーンで第2回目の裸の演説と「ロースからの解放」の講演。カタログ出版。後の『雨の日丸』にてシシリア島からベニスへの旅行 | |
1969 | アメリカにて巡回展 | |
1969 - 1971 |
版画「グッド・モーニング・シティ」に2年間取りかかる。ハンス・ブロックシュテットが代理人を務める。ベニスの運河に浮いている『雨の日丸』で生活し、制作 | |
1970 | 映画「フンデルトヴァッサーの雨の日」に2年間とりかかる。ポートフォリオ『雨の日』制作 | |
1971 | ミュンヘンオリンピックのポスター制作。気球の旅 | |
1972 | ヨラル・ハレルとの交友始まる。テレビ番組「何がおのぞみ」に出演、屋上に木を植えたり建物の外観に独創的な装飾のデザインをした建築モデルを展示。「窓に関する権利―樹木に関する義務」を宣言。母を亡くす | |
1973 | 日本の職人たちとの11年間の協力によって、『七百水』の木版画集が完成。ミラノのトリエンナーレ展に参加し、12本の樹木をマンゾーニ街に植える。「インクイリノ・アルベルト」出版。ニューヨークで個展 | |
1974 | オーストラリア各地で巡回展。ウィーンで展覧会。少年から青年期の作品集出版。ニュージーランド「環境保護週間」の為のポスター制作。オーストリア切手『渦巻の木』のデザイン。『雨の日丸』でチュニジア、キプロス、イスラエルを航海 | |
1975 | 2つ目の日本製木版画集『緑の涙』制作。ミュンヘンで回顧展。世界巡回展が始まる。「腐植土式汲取便所」の宣言文発行。 | |
1976 | 『雨の日丸』カリブ海へ航海 | |
1977 | 2度目の事故に遭い、ニュージーランドのカワカワ病院に2ヶ月間入院。12月にはパリのユネスコで第1回欧州生活環境会議において講演 | |
1978 | 中近東の平和旗をデザインし平和宣言を発行(翌年中東諸国首脳らに贈られる)。大統領レオポール・セダル・サンゴールの招待でセネガルへ赴く | |
1979 | 換気口のない腐植式汲取便所と水の浄化の実験。セネガル共和国への3種の切手とケープヴェルデ諸島共和国への2種の切手制作。ウィーンにて2つのコインを制作。チューリヒのフェッフィコン河畔で「糞の文化―聖なる糞」宣言発表。 | |
1980 | ウィーン市委託企画のレーヴェン通りとケーゲル通りの市営アパートのデザインを5種の建築モデルで展示。11月18日、アメリカワシントンD.C.市長の提案で「フンデルトヴァッサーの日」がもうけられ、100本の植樹のうち最初の12本がワシントンD.C.の司法広場に植えられた。『植樹は核の危機を我々から防ぐ』の反核ポスターをラルフ・ネーダーの核反対運動に寄付。ドイツで『ノアの箱舟2000』のポスター制作。第2回ヨーロッパ環境シンポジウム、ウィーンの工科大学にて、核反対と人間の為の建築についての講演 | |
1981 | オーストリア国家大賞授賞式の際に、核廃絶と現代美術の前衛への否定を唱える「偽りの芸術」のスピーチ。オーストリア環境保護賞受賞 | |
1982 | 「建築医」として、ゼルプのローゼンタール工場の再デザインを手がける。ウェストファーレン州ハムの石炭選鉱所の改築模型を作成。ザルツブルクのルペルティヌム美術館正面に陶製の『舌―髯』を制作。各地で建築、環境、芸術についての講演。ウィーンの国立美術アカデミーのマスタークラスの主任教授に任命される。ジャック・クストー協会とグリーンピースへの『鯨を救え』と『海を救え』のポスター贈呈を記念し、12月5日から12日までサンフランシスコで「フンデルトヴァッサー週間。ワシントンD.C.の環境センターに『あなたは自然のお客だ』のポスター贈呈 | |
1983 | 国連の為に6種の切手制作。ニュージーランドのカワカワ郵便局の保存委員会を設立。ウィーンのフンデルトヴァッサーハウスの礎石がおかれる。『草地の高層ハウス』のモデルがミュンヘンのIGAガーデンで展示。ニュージーランドの国旗デザイン。 | |
1984 | 「前衛の崩壊」のテレビ番組出演。ゴスラル市の環境保護賞受賞。フンデルトヴァッサーハウスの起工式が行われ、建築現場で働く。イタリアのペルティニ首相より、最も魅力ある切手デザイナー賞受賞。ハインブルクの牧草地を守る為の運動に積極的に参加。『ハインブルク―自然の自由は私たちの自由』のポスター制作 | |
1985 | 1年中フンデルトヴァッサーハウスの建設に携わり、『家』の執筆をする。フランスのジャック・ラング文化大臣より芸術文化功労賞授与。 | |
1986 | 2月17日、フンデルトヴァッサーハウス完成、入居が始まる(内部見学に7万人)オーストラリア国旗をデザイン。ブロックハウス大百科事典のデザイン制作 | |
1987 | CEPTヨーロパリア展の際に、フンデルトヴァッサーハウスを描いた6シリング切手制作。聖バルバラ教会とフランクフルトの保育所の施工案を作る | |
1988 | ウィーン市長の依頼により、ウィーンのシュピットロウ焼却場の修築を務める。フランクフルトで建築モデル展。ザルツブルクの国際夏期講習会で「自然と共生する人間的建築」の上級セミナーで指導する。オーストリアの黒いナンバー・プレートを守る為の運動と新しいデザインを提案。ウィーン市民名誉賞とスティーリア州名誉賞を受ける | |
1989 | 日本の蝉凧を制作。『草地の家』の建築モデルを制作。スイスのバーデンにて建築の講演「グリーン・シティ」を行う。 | |
1990 | 多数の建築プロジェクトを企画。ブレンハイムにて30分のテレビ番組「生きている財宝―現代の巨匠」に出演。 | |
1991 | 4月、クンストハウス・ウィーンの落成。ブルマウ温泉村のプロジェクトに打込む。オーストリアのグリッフェン、カリンティアや、ドイツのプロッヒンゲンの都市計画に参加。カジノ・オーストリアの為にフンデルトヴァッサーコインを制作。『リヒテンシュタイン公国へのオマージュ』シリーズの切手制作 | |
1992 | ウィーンでのECサミットを記念してテレフォンカード4種と切手1種を制作。シュピットロウ焼却場完成の記者会見。東京のTBSに「21世紀へのカウントダウン時計」設置、彼の現代建築と環境問題に関する筑紫哲也とのインタビュー番組を放送 | |
1993 | オーストリアのEU参加への反対運動に加わる。ドイツのプロッヒンゲンの複合住居の骨組の完成を祝う。オーストリアのグラーツ大学病院でガン病棟の人間的修復を提案。オーストリアのツヴェッテルとリンツに噴水を企画(翌年除幕式)。65回目の誕生日を記念して企画されたテレビ番組に出演 | |
1994 | 建築展がウィーン、ブダペスト、ハノーヴァで開催。ブダペストのための建築プロジェクト | |
1995 | ルクセンブルク公国の為の3種の切手と、国連のコペンハーゲン世界サミットを記念した3種の切手を発行。ドイツ、ヴィッテンベルクのマルチン・ルター学校の修築を手がける。『フンデルトヴァッサー・バイブル』完成。大阪キッズプラザのデザインを手がける。無駄を無くす社会づくりの為に、フンデルトヴァッサーの『万能包装具―フロシキ』をニューレンベルクで発表 | |
1996 | ドナウ川の古い観光船『MSヴィンドボナ』を改造。ウィーン産業の観光賞を受ける | |
1997 | 『樹木の精霊の渦巻』プロジェクトをダルムシュタットで提案。ドイツ切手協会のグランプリを受賞。ケルンで切手デザインとグラフィック作品、建築モデルの展覧会。ネパ・ヴァーリーを訪ね、ワイン醸造所の建築プロジェクトを行う。ブルマウ温泉村の落成。キッズプラザ大阪開館 | |
1998 | ダルムシュタットにて回顧展。ヴィッテンベルクのマルチン・ルター学校の修築基金設立の為、アートプリントを寄付。ドイツ旅行ジャーナリスト協会より「1998年VDRJ賞」受賞。リスボンのオリエンテ駅に『アトランティスの水没』の陶壁画を設置。イスラエルの砂漠森林化の環境プロジェクトの協力として、『樹木との共生―安らぎ』のポスター制作。3年がかりの12点のフロシキのデザインを京都の老舗、宮井(株)で制作。日本にて「フンデルトワッサーの世界展」が開催 | |
1999 | 日本にて「フンデルトワッサー展―楽園を求めて―絵画から建築へ」が開催 | |
2000 | 2月19日、ニュージーランドから欧州へ向かう船上(クイーンエリザベスU号)で心臓発作にて死去。現在生前彼が希望したとおり、ニュージーランドの木の下にて自然と一体になって永眠。4月舞洲ゴミ焼却場完成。舞洲スラッジセンター工事開始 | |
2003 | 舞洲スラッジセンター工事中。全世界10,000冊限定『HUNDERTWASSER 1928−2000』全作品集発行 | |
2004 | 4月舞洲スラッジセンター完成。 ウェルゼン駅完成(ドイツ)。 クンストハウス完成(スイス)。 |